娑婆に帰還、そして海を失う。

半月の間、自動車学校に合宿して通っていた。意外に友達が出来て良かった。自分も捨てたモンではないとここに砂上の楼閣を建てる事を宣言します。
考えてみれば2週間もの間同じ部屋に寝泊りすると言うのは人生初で最後の経験だろう。そんな状況の中で楽しい人達と過ごせたのだから自分は幸福に間違いないだろう。些細なつまらない事もあったけど、総じてそんな事は気にならないほど楽しさの濃縮された時間であった。
路上教習の時間に、海岸沿いを通る機会があった。そこで、初めて日本海を見た。車を運転中だったのでちらりと見る事しかできなかったが、綺麗だった。
そんな時間を過ごしつつも、本はちまちま読む事が出来た。シオドア・スタージョン「海を失った男」(晶文社)を読む事ができた。
海を失った男は、最初の2編、「ミュージック」と「ビアンカの手」が、読んでもチンプンカンプンだった。後者は熟考し、情報を得て多分わかる事ができた、と勝手に思い込んでいる。前者はいまだにわかりません。この2編を読んで少し休憩したのだが、このままわからない話が続いていったらしんどいなあと大いに不安を覚えた。でも杞憂だったようで。十分楽しめました。
「成熟」は成熟とは何か、について語り合っている下りは非常に楽しかった。こういう議論は自分にとってつぼのようだ。冲方丁マルドゥック・スクランブル」(ハヤカワ文庫JA)でも、第2巻でのワイズマンとボイルドの議論を楽しんで呼んだ記憶がある。哀しい事に、内容はさっぱり、記憶も忘却の彼方であるが。
「シジジイじゃない」は、ある意味では現代風刺(あるいはオタク風刺)になっているかなあと思って読んだ。1回目と2回目で、語句の意味が少しずれてくる、上手く出来ていると唸った。
「三の法則」は、スタージョンの考える愛の形というのがよく出ているなと感じた。また音楽が出ている点も見逃せないと思った。
「そして私のおそれはつのる」は、テーマでは「三の法則」と似ていると思った。それを超能力を介入させるか、異星人を介入させるかどうかであろうか。もちろんスタージョンの面白いところはそんなところにあるので無く、登場人物の発する言葉そのものにあるのだろうと言う気はします。
「墓読み」は、亡くなった妻の真意を知るために墓を読もうとする男の話(変な文章だ)だ。男は妻の真意を生前に理解する事はできなかった。その原因を妻の寡黙さに求めていたが、墓読みの修練を行っていく課程で、自分が妻の言外の言葉、表情やしぐさなどから意味を読み取る力にただ欠けていたからだと悟る事となった。こういうふうに墓を読むというアイデアを料理するのがスタージョンの真骨頂ではないだろうか。この本の中で2番目に好きになった編です。
じゃあ1番目は何かと言うと、表題作の「海を失った男」だ。圧倒的だ、超絶技巧だという惹句は良く目にする。けれども、本当にそう感じたりする事はあまり無い、少なくとも僕は。しかしこの編は圧倒された。最後の男の言葉は僕の心の中に、記憶の中に一生残って行く事になるだろう。
僕は卒業検定の合格発表の時に心の中でこう叫んだ。
「おれたちはやったんだ」

この本の編者である若島正さんは、早川書房の異色作家短編集を読んで育った世代であると書いている。ならば僕は、海を失った男を読んで育った男と、居酒屋での話のなかで20年後にでも言いたいと思う。