おひさしぶりです

 おひさしぶりです、snowbirdsです、お元気でしょうか。
 10月1日から環境が変わりまして、なかなか日記を書く時間を捻出することができず、一ヵ月半の放置とあいなってしまったわけであります。
 見通しとしましては、今から約1年ほどはあまり時間が取れなさそうというところですが、不定期に感想文を書いていけたらいいなという所存であります。
 ちなみに今はバラードの『時の声』を読んでいます。さすが巷間SF界におけるベスト・オブ・オブセッションと呼ばれるだけあって、各作品とも読み終わったあとも粘着質に記憶にこびりついております。ここでわたくしが思いをはせるのは、バラードと、SF界におけるベスト・オブ・パラノイアと呼ばれるディックが合作をしておれば、ということです。そうすれば後世に語り続けられるような快作、もしくは怪作が誕生していたかもしれません。また(間)海作になったのは間違いないはずです。
 久方振りの日記でこのような内容で恐縮ですが、このあたりで失礼させていただきます。
 

 『グラックの卵』 ハーヴェイ・ジェイコブス他 浅倉久志編訳 国書刊行会

 国書刊行会の叢書〈未来の文学〉のアンソロジー2作品目。今年出版される予定の本の中で最も期待していた、ユーモアSFを集めたアンソロジーである。編者あとがきによると40年代から年代順にユーモアSFを並べ、ジャンルの進化の跡をたどれるようにしたと書いているけれど、スラデックだけ読むときに使う脳が違っていて、少し異質な感じがした。以下個々の作品の感想。
「見よ、かの巨鳥を!」 ネルソン・ボンド
 くだらない物語と確信を持って書いているところが良いよね。くだらない物語をくだらなく語るのではなく、くだらない物語を、くだらないと知りつつ、全力で語るところにユーモアSFは花開くのではないでしょうか。
ギャラハー・プラス」 ヘンリー・カットナー
 一癖あるロボットはユーモアSFによく出てくるような気がする。本作もその例にもれず、ナルキッソスというロボットがでてくるが、このロボットとギャラハーのやりとりが楽しい。とんちんかんなことを言うだけでなく、助言もしっかりするところがまた憎めない。あと頭文字A〜Z酩酊お酒はしごと言える場面は必見。
「スーパーマンはつらい」 シオドア・コグスウェル
 良い邦題だと思う。原題だと身も蓋もなさすぎる。機械の万能を語っている部分は時代がかかっているなあと思う。
「モーニエル・マサウェイの発見」 ウィリアム・テン
 ぼんくら天下を獲る!という話かと思いきや、ちょっと違った方向に話が流れていった。しかしさて彼はどうなったのかなあ。どこにいってもぼんくらっぷりを発揮するんだろうかねえ。
「ガムドロップ・キング」 ウィル・スタントン
 既読のため省略。
「ただいま追跡中」 ロン・グーラート
 楽しいなあと読めてしまい、数日たったらきれいさっぱり忘れていそうな話だった。それはそうとマルチ・オプ探偵マーチが気になる。
「マスタースンと社員たち」 ジョン・スラデック
 くだらないことがそこらじゅうにばら撒かれていそうだけれど、回収率は低かったと思う。でも分かった範囲でも十分笑うことはできたから底が知れない。特におもしろいと思ったところは、非弁護士のクラーク・マーキーのしゃべる言葉。無駄に難しい言葉を使っているようで訳は難しかったのかもしれない。第十五課のような人種や宗教をネタにしたブラック・ユーモアもおもしろかった。あと図入りというのが良い。丁寧にフローチャートを矢印で図示してあるけれど、そこで行われていることはさっぱり無意味でおそろしい。無意味な図ほど無用なものはないのである。そこが好き。
 すかっと読めてオチも決まっている作品というのは読んでいる時点ではとても楽しいのだけれど、すぐに忘れてしまう。けれどもところどころに意味不明な箇所がある作品は読み終わった後でも作品も作者の名前も気になりつづける。作者側の問題であればそれは技量不足であろうし、ほうっておいてもいいが、スラデックだからひっかかるけれども解することができない部分は読者側の問題であるはず。でもすぐに再読しても恐らく解る部分は変わらないだろうから、少し時間がたって脳の結線が変化した頃再読するつもり。『スラデック言語遊戯短編集』が欲しくなってきた。
「バーボン湖」 ジョン・ノヴォトニイ
 すべての読書家がバベルの図書館にあこがれをもつように、すべての酩酊家はバーボン湖にあこがれるのである。君も行こう、バーボン湖へ。ビーバーと酒友達になれる、すばらしいことだと思わないかい?
「グラックの卵」 ハーヴェイ・ジェイコブズ
 公式には絶滅種とされているグラックの受精卵を、故郷のフランドルで孵化させるまでの道中を描いた作品。この道中に旅立つきっかけになったヒーコフ博士が最初から、中盤は置いといて、最後までどんな状況でも異彩を放っている。ハワード・ウォルドロップの「みっともないニワトリ」を思い出しました。

 『遠い女』 フリオ・コルタサル他 木村榮一編 木村榮一/井上義一/入谷芳孝訳 国書刊行会

 ラテンアメリカアンソロジー3冊目。収録作家をみてみると、『美しい水死人』とけっこう重なっている。だからといって同じような作品を書いていないところが短編小説のおもしろいところだと思う。深く吟味していけば共通の素材なりテーマなりを見出すことができるかもしれないが、道半ばで力足らずということにしておこう。
「夕食会」 アルフォンソ・レイエス
 なんかもどかしい。なろほどそういうことかと理解できそう、な気がするけれど多分さっぱり理解できていないだろーなー。10ページで現実に起こった話だとわかるけれど、ストーリーをおっていくと幻想的な作品にしか思えず、ラストでまた現実に戻される、けれどもそのさまが幻想的である。
「流砂より」 オクタビオ・パス
 あまりに頭に入ってこなかった。肌に合わないととことん合わないもんだ。
「チャック・モール」 カルロス・フエンテス
 溺れ死んだ男の手記から作品の大部分が成り立っている。理屈に合わない、不自然なことが起こっているが、手記はごく自然に書かれており、現実だと思わざるをえない。
「分身」 フリオ・ラモン・リベイロ
 分身をあつかうときには分身どうしが出会うときが1番の見せ場だと思う(そのあとどちらかが死ぬのは決定的)。それを分身に関する格言だったか箴言だったかに矛盾する事なく描いていて新鮮。
「遠い女」 「集合バス」 「偏頭痛」 「キルケ」 「天国の門」 フリオ・コルタサル
 コルタサル巧いなあ。「遠い女」の夜に書いた日記を受けて「今のは嘘よ」と書く自意識過剰気味な文や「偏頭痛」のうなされるような文体がかっこよすぎる。「集合バス」は読んでいて終始違和感をクラーラと若い男と共に持ちつづけていたけれど、ラストでクラーラと若い男はどうも違和感を解消してしまったみたいだ。けれども僕の違和感は晴れないので困る。勝手な解釈しか思いつかないから困る。巧くても困る。「キルケ」はおかしいことにはうすうす気づいているのにラブラブパワーに邪魔されて良いように解釈してしまうところがおもしろい。しかし気持ち悪いはなしだ。「天国の門」はなにかおもしろいことがあると「これはカードに記録しておこう」とのたまう好奇心旺盛な観察者であるアルドイ博士のほうが、愛し合っているマウロとセリーナよりも二人の関係をよく理解しているのがおもしろい。
「未来の王について」 アドルフォ・ビオイ=カサレス
 おもしろさを読み取れなかった。あいかわらず題名はよくわからん。
「航海者たち」 マヌエル・ムヒカ=ライネス
 奇想たっぷりで楽しかった。冒険を経て成長しているけれども、その代償との歪みがおもしろかった。ユートピアの思想も入っているかもしれない。

 『アルゼンチン短篇集』 コルタサル他 内田吉彦訳 国書刊行会

 引き続きラテンアメリカ文学の短篇集を読もうと思って選んだ。バベルの図書館という叢書であり、それもあってかボルヘスが編纂と序文を担当している。その序文と、前に読んだ『美しい水死人』、今読んでいる『遠い女』のあとがきを読んでいると、ポーの影響を受けているというのがよく分かった。そしてひがみから思えるのか、ポーなんて読んでいて当然だなという雰囲気がただよっていたのですこし居心地が悪かった。ポーは私的絶対に読まなければならないリストの上位においておくことにしよう。それでは個々の作品の感想を。
「イスール」 レオポルド・ルゴーネス
 1ページ目から、サルとは何らかの理由で話すことをやめてしまったヒトである、というキャッチーな文があり楽しい。その仮説を証明するための実験が全篇繰り広げられるのだが、ラストもそうだがどうも内容に植民地―被植民地の関係を読み取ってしまうのはルーシャス・シェパードが悪いのだと思う。
「烏賊はおのれの墨を選ぶ」 アドルフォ・ビオイ=カサレス
 よくある題材をあつかった、完全なSF。60年代のSFマガジンに載っていそうな短篇。いやあ、あなたとこんなところで会うとは思いませんでしたよ。ちなみに烏賊は出てこないが、タイトルは好き。
「運命の神様はどじなお方」 アルトゥーロ・カンセーラ/ピラール・デ・ルサレータ
 寓話か風刺を書いた作品だろうけれど、すくいとることができなかった。
「占拠された家」 フリオ・コルタサル
 この短篇集の中で1番の好み。占拠される様はぼかした描写で幻想風味を出しているが、ラスト近くにお金が出てきたりして妙に現実的。政治風刺的な読み方もじつはできるのではないかと思う。占拠されてもまあ楽しく暮らしている兄妹がおもしろい。
駅馬車」 マヌエル・ムヒカ=ライネス
 駅馬車の道中の描写と、カタリーナの過去に行った行為があいまって重苦しさが作品を支配している。幻想的な復讐と、そのあと訪れるうすらさむい景色は印象的な余韻を残す。雰囲気を楽しめばいいかな。
「物」 シルビーナ・オカンポ
 人間生きていれば多くの物を失っていくが、失ったものが戻ってくるとどうなるか?小噺のようで好きだけれど、本気かどうかわからないが練習なら書くなと思う。
「チェスの師匠」 フェデリコ・ペルツァー
 なんじゃそりゃと読み終わって叫ぶ人間が自分以外にもいるはず。『魔法の書』の中にも、どうしようもなくくだらない作品があったけれど、なかなかこの作品も引けを取らない。
「わが身に本当に起こったこと」 マヌエル・ペイロウ
 これもSFと言って良いような気がする。だからかどうにも素朴な印象を受ける。作者名が分からなければハインラインの作品かと思ってしまうかもしれない。
「選ばれし人」 マリア・エステル・バスケス
 あんまり好きじゃない。あの方とかあの方の子どもが出てくる話は好きじゃないのかも。

 『美しい水死人』 ガルシア=マルケスほか 木村榮一ほか訳 福武文庫

 夏の夜長にはラテンアメリカ文学がぴったりだろうと思って、とっつきやすそうなアンソロジーから読んでみることにした。
 ラテンアメリカと一括りにしてあるけれど、「犬が鳴いていないか」のようなリアリズム小説から、「羽根枕」のホラー、「水に浮かんだ家」のような幻想小説まであり、この1冊読むだけでもラテンアメリカ文学の豊饒さがわかる、気がする。また「パウリーナの思い出に」や「山椒魚」なんかは内容もさることながらとても巧いなあと思う。
 そのなかで気に入ったのは、「アランダ司令官の手」と「閉じられたドア」。「アランダ司令官の手」は、前半で博学ぶりを発揮して伏線というか地ならしを行い、後半に想像を働かす、という作品だけれど、前半をふまえて、それじゃあこうなんじゃないかと飛躍させていくところがいとおしい。「閉じられたドア」は1日中寝て過ごすという全てのぐうたらの願いを体現するところがおもしろい。もちろん本人は寝ることが使命だと思っているところもポイント。これからラテンアメリカ文学という高みに上ろうとする人間にとってはあまり難解でもなく、良質なアンソロジーでありました。

 森見登美彦 『太陽の塔』 新潮文庫

 大学生の本分は勉強なのだが、本当にまじめにはげんでいる人間というのはあまりいないと思う。少なくともぼくの周りにはいなかった。類は友を呼ぶという言葉があるがここでは忘れることにしよう。勉強にはげまないでなにをするか?それはひとそれぞれだ。サークルにはげむのもよし、コンパに精を出すのもいいかもしれない。あるいは、バカなことに力を注ぐという人もいるだろう。ある人間を観察し、240枚ものレポートを作成するといった、人からは見向きもされないようなことに注いではいけない資源までつぎこんでしまう。そこには痛々しさが漂っているのは否めないけれど、嘲笑することはできないないあ、すぐさまその嗤いは自分に返ってくる。この小説、身につまされすぎる。おもろうて、やがてかなしき。
 夜を徹して鍋をするというのは大学生に与えられた特権といっても過言ではないと思う。はふはふ言いつつマロニーをつるつる吸い、舌をやけどしてひいひい言い、水をごくごく飲み、にっこり照れ笑う。しかし夏にはできないという欠点も残念ながら持っている。だもんで夏に集まると麻雀をする。別にお金なんて賭けない、楽しむためにするのだ。それでも眠くなる時もある。そして睡魔に襲われ、はっと気づいた時には、霧吹きをかけられ股間は濡れてひんやり、鼻には異物感がある。抜いて確認するとポッキー1本。
 そしてとてもどうでもいいはなしをする。共産党宣言をとくとくとして語り、森鴎外について一席ぶち、ある女との100年ぶりの逢瀬という一夜の夢を語る。そして恋のはなしをするのだ。そんな生活を、描写を、送ってきたのである。
 非生産的なことをしているのはわかっているけれど、悲しい戦いを始めたからにはもう止められない。弱音をはいていいのは炉で肉を焼き終わった後の余韻の中でぽつりと言う時だけだ。あのシーンにはぐっとくるものがある。夢玉の場面といい、飾磨の短い言葉には惹きつけられるなあ。
 力足らずで伝わりにくいと思うが、懐かしいことを語りたくなるほどおもしろかったということでなんとか御寛恕頂きたい。
 今年は多分行けないけれど、来年の京フェスに行くときには叡山電車に乗ることにしよう。

 チャールズ・ストロス 金子浩訳 『シンギュラリティ・スカイ』 ハヤカワ文庫SF

 SFマガジン2005年12月号はニュー・スペースオペラ特集であったが、その解説の中で「ニュー」というのは、シンギュラリティ以降の世界を扱ったものと筆者は答えてることにしているようだ。じゃあシンギュラリティとはなんだろうと『シンギュラリティ・スカイ』の解説を読んでみると、「科学技術の幾何級数的進歩によって現在からは理解も予測もできない段階へと世界が到達する時点を指す」というものらしい。現在からは理解も予測もつかないことを、ドン・キホーテ的な蛮勇をふるって理解し予測するのがSFの魅力のひとつだと思うので、読む前はとても期待していたのだがなあ。
 冒頭出てくるコルヌコピアマシンという存在が気になるのですよ。なんでもできる万能マシンの出現を承認するためにシンギュラリティという概念が使われているように感じてしまったので、どうにも乗りきれなかった。そんなの割り切ればいいと思うんだけど、気になってしょうがなくなってしまった。しかしこのマシンからスターオーシャン3の序盤で不時着した惑星の文明水準に合わせて剣をつくりだした場面を連想したのはぼくだけでしょうか。
 まあそういうことは置いておくことにして、娯楽を求めて宇宙をさまようサーカス団の団長フェスティバル、それに寄食しているクリティックたちは異様でおもしろい。とくにクリティックは、〈観察する女ファースト〉、〈戦略のシスターセブンス〉といった名前がついていてすてき。全員がそろって登場する時は各々ポーズ付きで決めてくれるに違いない。
 ところどころ不満はあるけれど、ぜんたいとしては楽しめた、というのが感想。もっとよくわからないユーモアがあってもいいかなと思う。次作も訳されるのは決定みたいなので、気長に待つことにしよう。あと≪アッチェレランド≫シリーズも訳されるといいな。